6.チャーミング

「お母さんねぇ。俺はそんな悪い人に思えないんだけどな。」


島田さんは言う。


「かなり変わってるとは思う。だってさ、俺がお呼ばれした時ずっと言ってたもん。

いつもはもっとちゃんとしたご飯作るんですよ〜とか、いつもはもっと家もキレイなんですよ〜とか。

じゅうぶんご馳走だし、家もピカピカだったのにね。」


あっちゃんは言う。

「全力でおもてなしといて、あるものでチャチャっと作っただけだからごめんね〜とか言うの、あの人は。見栄っ張り。」


「それがさ、チャーミングだよね。」


島田さんはいい人だ。

あっちゃんは心から思う。あの母を、チャーミングで済ませてしまえるなんて。


「私はこれが最大のおもてなしだけどね。」

ビール缶をテーブルにドンと置いてぶっきらぼうに言うと


「俺、クリアアサヒ好きよ。安いし。あとあっちゃんの料理はめちゃめちゃおいしい。」


そう言って、両手を広げる。

あぐらをかいた膝の上に座りながら、あっちゃんは思う。


島田さんの腕はどうしてこんなにしっくりくるんだろう。

かすかな匂いは、どうしてこんなに優しい色をしているんだろう。


もう話さなくてもいいかな。

と思った時


「で?

もっと聞かせて。あっちゃんの武勇伝。」

と言われて吹き出してしまった。


武勇伝か。

うん。

なんかいいな。

5.憧れはママの甘い子守唄

私と母の関係は、そんなにいいものではない。


いい思い出がない、と言った方がいいかもしれない。


生まれる前の記憶があったら、どうして彼女のところに来たのかがわかるのに。何度も思っていることだ。


はじめてのおつかいという番組が好きな彼女は、画面に向かって

がんばれ!もうちょっと!とか言いながら涙を流したりする。

そこで思い出すのが、私のはじめてのおつかいである。


牛乳買ってきて。と言われて家の裏にあるスーパーに行った。

20円引きのシールが貼ってある。これは喜ぶに違いない!とその牛乳を買って家に戻ると

こんな古いもの飲めるわけない、取り替えてこい。と言われた。

レシートを見せたら大丈夫だから。と言われて家を出たものの


レシートを見せて取り替えてもらう。

この行為がどうしても恥ずかしくてレジに行けない。

家に戻ることもできない。


私は家の前で牛乳を抱えて父が帰ってくるまで待っていた。

帰ってきた父に事情を話し、スーパーで取り替えてもらい、家に戻ると


スーパーこんなに近いのに、何時間かかってんの?役立たず。働かざるもの食うべからず!

と、晩ご飯の格下げを言い渡された。


そんな小さなエピソードから、悪魔払いと称したホースの水を延々かけられる儀式、ピアノの蓋で指をはさむ儀式、など


彼女との戦いの歴史は根深いものがある。


私の他にも兄の婚約者をいびり倒したり、地域の人たちに悪気ない嫌味を撒き散らしたり、


世話の焼けるおばさんなのだ。


私が東京で家出人だったころ、家に泊めてくれた男の子と朝方歩いていた時に


お前はお母さんが死んだら後悔しないのか?


と聞かれて

ホッとすると思うよ。

と答えたら


じゃあなんにも言わないから好きな時に泊まってけよ。と言ってくれたのは、


今でもいい思い出だ。


4.いつか王子様が迎えにきてくれる。

男運は、お世辞にもいいとは言えない。

海辺の田舎町で育った。

スナックが立ち並ぶ商店街には昼間から酔っ払いがうろつき、


私は通学路で、放課後の小径で、何度も露出狂にあった。


父にも兄にも、なぜだか胸やお尻を触られる毎日だった。


別に色っぽい子どもだったわけではない。日焼けしたどこにでもいる子だ。そして特別大人しく、特別頭が良かった。


中学生になり、初めての恋人ができていつも一緒にいるようになった。


恋って楽しい。

そのまま、初めて男の人に抱かれてみた。


終わってみると呆気なく、大人のキスは気持ち悪く、私はこれでこの人とずっと一緒にいなければいけないんだろうか。。と気が重くなっていた。


そんな気持ちを隠したまま付き合っていたある日、廊下で女の子と話している彼を見かけた。


キョロキョロと周りを気にしたかと思うと、2人はさっとキスをした。


目撃したのは私だけだったと思う。

目をそらさずにいると、彼と目が合った。すぐにそらされた。


そのまま、別れ話もなく終わった恋だった。


それからも私の男運はよろしくないことが続く。


そのうちに、はたと気づく。

私は男の人に

うんうんと黙って話を聞いてほしいだけで

優しく抱きしめてほしいだけで

ただ好きでいてほしいだけだった。


セックスなんか最初はいらなかったのだ。

お母さんの代わりに優しくわかってほしいだけだったのだと。


お母さん。


そう呼ばなくなったのは、いつからだろう。

今は、「あんた」と呼んでいる。




3.島田さんのこと。

「つまり、共感覚があるってこと?

それと、思い切って聞くけど、虐待を受けてたってこと?


答えたくないならいいよ。と島田さんは付け加えた。


「そうだね。そうみたい。」


あっちゃんはよく、こんな風にまとめて答える。

慣れた人は、それで全てを分かってくれる。

島田さんもその1人だ。

あっちゃんの恋人でもある。


2人は7月の熱い午後、部屋の中で汗ばみながら冷たいビールを飲んでいる。

息子のシマくんは保育園に行っている。

夕方までの時間で、あっちゃんは自分のことを島田さんに打ち明けようとしているのだ。


キッカケは、プロポーズだった。

あっちゃんもお受けするつもりだ。


そりゃあ、息子の名前が島田シマになってしまうのは心配だ。ネタにして生きていけとしか言えない。


けれど、あっちゃんはもうずいぶん長く頑張ってきた。

島田さんも、一年もたっていないけど2人をそっと見守って、楽しくやってきた。


もういいだろうと言うことで、この2人は結婚をしようとしている。


ホッとしたのだろうか。

あっちゃんは、誰にも話したことがないこれまでの人生を、今話してみようという気になった。


この話を聞いても、大切にしてくれる人や、面白がってくれる人となら、うまくやっていけるかもしれない。


そんな気持ちもありながら、あっちゃんは話す。


2本目のビールを開けながら。

2.オレンジ、ピンク、緑の蔓。

私に見えている世界が、みんなには見えていない。

それを知ったのはいつだったか。


ホットケーキの匂いはオレンジ色には見えないし

人の足跡はピンク色ではないし

ピアノの音は緑の蔓になって私に向かって伸びてくるわけではない。


トイレの中で梨の木から生まれた小さな女の子が話しかけてきたりしない。


最初は私だって、みんなを疑った。

だったらどうやっていい匂いだってわかるの?

どうやって音楽を聴いているの?


色のない世界はつまらなくないの?


そのうち、だんだんわかってきた。

口に出さない方がいい。

おかしいのは私の方なんだ。

コッソリ。それでいいじゃない。


私は突然笑ったり、1人でビックリしたり、独り言の多い子になった。


そりゃあ変だったと思う。

友達もそんなにいなかった。

それでも、同じクラスの野蛮な男の子やいじわるな女の子より、梨の木から生まれた小さな女の子と話している方が楽しいからよかったのだ。


お母さんやお兄ちゃんが私をたたく時も、たたいた音は石のように飛んで弾けてまわりに散らばった。


暗いところに閉じ込められても、匂いがすれば暗闇は映画館になる。


私はこの色とりどりの世界と、小さな友達に助けてもらいながら、子ども時代を乗り切った。


服はいつも灰色と茶色だったけど、目に見える世界は、クラスの誰よりもカラフルだったはずだ。



息子のシマくんは、朝ごはんを食べながら1人で話している。

キャキャっと笑ったり、もう知らない。と横を向いたりしている。


シマくんのお友達は、どんなカタチをしているんだろう。


いつか聞いてみたいと思っている。




1.はじめに。

あっちゃんは、不思議な女の子だった。


少し変で、笑っていてもすぐ泣き出すんじゃないかと心配になってしまう女の子だった。


あっちゃんはいつもお母さんの話をしてくれた。

お母さんが選んでくれた灰色のスカートをはいて

お母さんが選んでくれた茶色い靴をはいていた。


あっちゃんが本当は何を考えていたのか、誰も知らない。

14歳の時、初めてあっちゃんを抱いた男の子も

20歳の頃、一緒に暮らしたアリネイも。


あっちゃんは今、32歳になった。

小さな男の子と、小さなアパートに住んでいる。


そのアパートの部屋でたった今、男の人と向かい合って座っている。

いつものように力の抜けた顔をして、真っ昼間からビール缶を開けたあっちゃんは、言った。


「私の話をしてもいいかな。」